アメリカ、ボストン生まれ。アメリカアールヌーヴォーの一翼を担った建築家、デザイナー。
マサチューセッツ工科大学へ進んだが、退屈して直ぐに退学。ニューヨークに出る。
ニューヨークのリチャード・モリス・ハントを訪ねたが失望し、フィラデルフィアのフランク・ファーニスの事務所に入るが不況のため人員整理にあい職を失う。1873年にシカゴに出て来るなど若い頃は定まらない人生を歩む。
シカゴは1871年に大火にあっており、まだ焼け跡が生々しかったが、後にモリスはここで建築によりシカゴを改造する野心を抱く。
シカゴではまずウィリアム・ル・バロン・ジェニーの事務所に入るが、短期間で退職し今一度ニューヨークに出る。しかし、翌年にはパリに旅立ち、パリのエコール・ド・ボザール(美術学校)に学んだ後に再びシカゴに戻る。
シカゴに戻ってきたた彼は、新しい建築構造を開発したエンジニア、フレデリック・バウマンと知り合う。またジェニーの事務所で同僚、友人であったジョン・エデルマンから植物を元にしたデザインを学ぶなど後の活動の下地になる影響を受ける。
彼は祖父や父が行商人で有った影響からかあちこちに遍歴したが、そこから独学で雑多な知識と技術を習得し独自のスタイルを構築していった。
そして79年にダンクマー・アドラーの事務所に入る。エンジニアのアドラーとデザイナーサリヴァンの役割分担が上手く行きサリヴァンには珍しくアドラーとは14年間続くパートナーとなる。
80年代は好景気が戻って来て依頼も増したが、彼らを一躍有名にしたのはシカゴ・オーディトリアム(公会堂)で有った。
十階建の巨大建造物に六階建の塔が載っており、内部にはホテル、ビジネス街、そして4200席の劇場が入っていた。音響効果の専門家であるアドラーは、コンサートホールの構造設計に腕を振るった。
サリヴァンは建築物正面とインテリアのデザインを施し、評判を得た。
オーディトリアム・ビルの成功により、注文が増し事務所は大きくなり、人員も増えたがその中に若き日のフランク・ロイド・ライトの姿も有った。
1893年シカゴでコロンビア博が開かれ、アメリカ中の建築家が委員になり委員会を作ったが、委員会は東部建築家主導で行われ、シカゴの建築家もそれに従ったため、コロンビア博はシカゴ派の現代建築様式ではなく、疑似ローマ風の歴史主義で彩られた。その中でサリヴァンのトランスポーテーシヨン・ビルのみが現代建築でアメリカ的であった。
コロンビア博後アメリカ建築の流れは一時、疑似的な欧州復古風に傾き、モダン・デザインと離れていきましたが、一人サリヴァンはこの流れを批判し、孤立していきました。孤立した彼はアドラー、ライトらとも上手く行かなくなり、95年からはアドラーと別れ一人で仕事をするようになったが、注文主とも揉め、次第に仕事は減っていき、晩年は苦しい生活を強いられるようになりました。
彼の装飾、建築デザインは、花と葉を用いいた事が多く幾何学的なパターンであったが、それらは神の崇高な意思が装飾に現れたものではなければならなく、本来意思が宿っている建築物、インテリアの内面を忠実に外面に表せば美しく表現できる、また美しさによって表わされた環境は人々にとって良き社会生活に繋がると考えていた。
これら考えは英国のアーツアンドクラフツ運動と同様であるが、サリヴァンは本来からアメリカの自然などを含めた物に備わっている意思を芸術と工芸を統合することで表したいと考えており、人々がついに彼の建築デザインを理解した時に人々の生活は向上していくと信じていたのでした。