チャールズ・イームズ Charles Eames
(1907-1978)
アメリカ、ミズーリ州セントルイス生まれ。ミッドセンチュリー期アメリカの中核的インダストリアルデザイナー。
父が58歳時に4人姉妹の下に長男として生まれる。12歳の時、70歳で同名の父チャールズが亡くなると男手はチャールズ少年一人となりアルバイトをしながら学業にも励んだ。 高校時代にラクリード製鉄所で非常勤労働者として働き、ドローイング、工学、建築について学び、建築家になる考えを抱いた。 1925年奨学金を得て、セントルイスのワシントン大学建築科に入学。一年生時には優等生で有り代表にも選ばれているが、大学のカリキュラムは古典建築の伝統を重視する折衷主義建築様式であり、学生は従順でなければならない校風は自由な精神の持主の彼には合わなかった。チャールズは当時としては前衛建築家であったフランク・ロイド・ライトに魅了されており、ロイドの作品はカリキュラムに絶対必要だと考えていた。そこで教授に研究テーマとして提案し続けたところ、頑固な反対にあい、逆にライト支持を止めるように忠告されたが聞き入れなかったところ二年で退学処分となった。 29年ワシントン大学在学時に最初の妻であるキャサリン・デューイ・ウォーマンと出会い結婚する。 彼女はヴァッサー大学で学位を取得していた建築研究生で、大学院建築課程に合格した初の女性であるなど際立っていた。 また父は著名で影響力のあるセントルイスの土木技師フレデリック・ウォーマンで有った。 ヨーロッパへ新婚旅行で赴き、インターナショナル・スタイルのモダニストであるル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエの作品を観察する。
欧州から帰って来るとアメリカは10月から始まる大恐慌の渦中であった。 チャールズは仕事を得るには自らの建築事務所を開設するしかないと決意し、チャールズ・グレイと共に事務所を立ち上げる。後にはパートナーとしてウォルター・ポーリーも参加するが、押し寄せる恐慌の波に業績は芳しくなかった。 仕事がなくなるとチャールズは酒に溺れ、家庭もうまくいかなくなり、妻の両親に妻子を預け、ポケットに75セントだけを詰め込みメキシコに旅立つ。 メキシコでは自然に親しみ幻想的な色彩を奏でる空気の中で生活し、油絵や水彩画と食糧を交換するなど物資は必要最低限に押さえた生活であったが、精神は回復しセントルイスに戻り、次の活動に繋げる鋭気は養った。 セントルイスに戻った彼は友人であるロバート・ウォルシュと共に建築事務所イームズ&ウォルシュを設立する。 このとき設計した建築のひとつ聖マリア教会が『アーキテクチャル・フォーラム』誌に掲載されたが、クランブルック美術アカデミーの学長をしていたエリエル・サーリネンの目にとまった。サーリネンは手紙で今後の仕事について尋ね、その後チャールズが彼を訪ねた際に学校の特別研究員になる誘いを持ちかけた。チャールズはこれを引き受け、38年から学校で建築都市計画課程の学期を始める。翌39年にはインダストリアルデザイン科教授、40年には同科の学長となる。 当時のクランブルックにはハリー・ベルトレイア、後にノール社社長となるフローレンス・ノール、ドン・アルビンソン、学長の息子であり親友となるエーロ・サーリネンなど未来の有名デザイナーが数多く在籍していたが、最大の出会いは生涯のパートナーで後に妻となる当時はまだカイザー姓であったレイとの巡り合わせであった。 チャールズとレイのコラボレーションはデザイン界に次々と衝撃を与えると共に、後に流れに定着する物へと繋がった。 二人の仕事はどちらが何かを受け持ったとは区別付け難く、正に融合であった。レイは控えめで常にチャールズを立てていたが、彼女の功績が大きかったのではないかとも言われている。 |
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