二人の出会いとデザイン
レイが最初にチャールズをサポートしたのは40年、MOMA(ニューヨーク近代美術館)『オーガニック家具デザインコンペ』にチャールズがエーロ・サーリネンと共に応募した作品を手伝った時でした。コンペの結果は翌年に発表され、チャールズ、エーロ・サーリネン共に応募した部門で優勝を獲得。出品された椅子には後にイームズデザインの重要要素となる成形合板をすでに使用していたことは注目に値する事でした。
41年には事実上別居していた妻キャサリンと離婚し、惹かれあっていた二人は6月20日に結婚し、クランブルックを離れカリフォルニアで生活を始める。 新天地ロサンゼルスで人脈を築き始めた二人は、生涯の付き合いになるジョン・エンデンサと出会う。エンデンサは『カリフォルニア・アーツ&アーキテクチャー』誌の編集長をしていたが『オーガニック家具デザインコンペ』で彼らの作品を見、感銘を受けていたため、チャールズに共同編集人にならないかと誘いをかけた。 チャールズはこの誘いを快諾。 42〜44年の間レイは同誌表紙デザインのほとんどを手がけた。 編集人を務めると共に自宅アパートでは、成形合板家具の研究制作に邁進、彼考案の奇妙な装置『ガザム!マシーン』で品質テストするなど成果を上げ、42年に成型合板の研究開発を行うプライフォーム・ウッド社設立する。 スタッフはグレゴリー・エイン、ハーバート・マター、そして後にワイヤーチェアで名をはせクランブルック時の盟友でもあるハリー・ベルトイアなどであった。
41年にアメリカは第二次世界大戦に参入したが、チャールズはアメリカ海軍のために成型木材で制作した医療用の添木を開発した。実用的であり美しい添木は、海軍に正式採用されプライフォーム・ウッド社は5000個制作の受注を獲得。会社は順風満帆なスタートを切ったようにみえた。 しかし同社は更なる製品の受注を見込み拡張したが、海軍からの代金支払いが滞ったため経営難に陥ってしまう。 難局を乗り切るためチャールズは会社をエヴァンス・プロダクツ社に売却することで解決しようと図った。同社はエヴァンス・プロダクツ社の成型合板部となってしまったが、当面の難局は乗り切った。 この時期チャールズの会社経営は難航したが、戦争時に開発された最新の素材、技術と直結出来たことは大きかった。 後にそれらを用いいて新たなデザインの家具を製作していくことになり、今は形となって見えてこそいなかったが成功への序章となる出来事だったからだ。 例えば軍用機の大型なパーツを成形合板で制作をする技術、精度の高い部品の受注などは成形合板製品を制作するための技術を高めた。成形合板を使った腕用の添木や担架の試作は、人間工学に基づいた家具を製作することに繋がった。 チャールズ、そしてアメリカにとっても困難な時代は大戦と共に終わりイームズ時代の幕が上がり始める |
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