名作家具誕生
45年大戦が終わるとアメリカは帰還した若い兵隊たちが結婚し、新たな家庭を持ったため住宅ブームが起こり家具の需要が急増しだした。
この時を待っていたかのようにチャールズの今まで培った技術が次々と花開き、椅子、テーブルなど数々の名作が生み出されて行くのであった。 チャールズは『低コスト・高品質家具』を掲げ需要に応えようと考えたが、それを可能にするためには製品を規格化し大量生産することが不可欠だった。このための方法に軍からの依頼で成形合板製品を大量生産した時の技術が役立った。 また製品が例え安くても相手から欲しいと思われるものでないと、売れず商売は成り立たない訳であるが、チャールズがデザインした家具は規格化に対応できることは勿論、シンプルで無駄がなく快適でしかも美しい生産物であったため人気を博したが、こちらも今まで彼が苦しみ生み出してきたアイディアが集結した結果だった。 終戦間近になると、軍用技術が家庭用にも使用可能となったが、エヴァンス・プロダクツ社は合板製品の大量生産を企画し始めた。このとき試作されたのがイームズ・チェア名作として名高い「ラウンジチェア・ウッド(LCW)」、「ダイニングチェア・ウッド(DCW)」、「ラウンジチェア・メタル(LCM)」、「ダイニングチェア・メタル(DCM)」であった。 46年にはMOMA(ニューヨーク近代美術館)のインダストリアルデザイン部長であり40年の『オーガニック家具デザインコンペ』主催者でもあったエリオット・ノイスが『チャールズ・イームズがデザインした新しい家具』展を同美術館で開催した。 展覧会には試作した椅子はもちろん、テーブル、収納家具、子供用家具など他には有名なイームズ・ラウンジチェアの試作品も展示された。 この展覧会は関係者に衝撃を与え、各社がチャールズ獲得に動くこととなった。 代表的なところではノール社などが獲得に走ったが、ハーマンミラー社のデザイン顧問であったジョージ・ネルソンの「自分へのデザイン料を削ってでも、才能あるチャールズ・イームズを迎えるべきだ」と強い呼びかけでD・Jディプリー社長に彼を紹介したというエピソードからもうかがえるとおり最大の熱意があったハーマン・ミラー社がチャールズを獲得することとなった。この出会いは幸せなものであり今日まで続く取引関係となった。またネルソンとは良き仕事仲間となる。
45年1月からカリフォルニア・アーツ&アーキテクチャー誌では南カリフオルニアの平均的市民が安価で手に入れられ、更に住宅環境の改善に貢献出来る建築物を考案するプロジェクトを「ケーススタディ・ハウス」と名をうって立ち上げた。 編集長ジョン・エンデンサは8人の建築家に依頼した。建築家は一戸建て住宅を設計し、モデルハウスを建築したが、チャールズ&レイはケーススタディ・ハウス#No8を受け持った。 48年イームズ・オフィスはMOMA(ニューヨーク近代美術館)「国際低コスト家具デザイン・コンペ」に応募するためにUCLA工学部と共同チームを結成した。コンペはその名のとおり、秀逸なデザインの家具を低価格で生産することを目的としていた。 戦後、ボリューム層を厚くしていた平均的な家庭はよき物を手の届く値段で手に入れることを望んでおり、デザイナーや企業はそれを提供する必要性が生まれていたが、その様な社会的背景の上で催されたのが同コンペだった。 チャールズは、繊維ガラス強化プラスチックを金属プレス加工で仕上げることで大量生産を可能にし低コストを実現することでこれらを達成することを提案した。 コンペには、最小限度まで素材を減らしたミネマムチェア。そして美しいフォルムで美術館永久コレクションにもなるラ・シェーズの仕掛品を出品。 作品は賞を獲得し50年5月の展覧会で展示されることなった。ちなみにこの時の審査委員には有名なドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエもいた。 プラスチックを素材にしたプラスチックシェルチェアはイームスチェアの一方の代名詞となって行く。 第二次世界大戦で生まれたプラスチック技術は戦後、民間利用できるようになったが、イームズ・オフィスはこの素材を椅子製作に利用できると考えた。 戦時中に繊維ガラス強化プラスチックをレーダードームに使用し製造していた会社ジーニス・プラスチック社に椅子生産を依頼し、販売はハーマンミラー社が行うこととなった。 プラスチックシェルチェアは大量生産できたため手頃な値で提供出来、さらに造形的に美しかった。これは長年の目的、より良い製品を人々に広めることの達成を意味したためイームズ夫妻は大変満足であったという。
良い素材、生産方式を獲得したイームズ・オフィスは50年代以降プラスチックシェルチェアの名作を続々と世に送り出してゆく。 名作は幾多もあるがここでは、アーム・座面・背を一体に包み込むラウンジ・アームチェア。アームなしのシェルチェアであるサイドチェアを挙げておく。シェルの愛くるしさはもちろんであるが、プラスチックシェルチェアもう一つの特徴は、脚部バリエーションの多彩さにもあるだろう。なんと16種類もの脚部をそろえており、実用一辺倒ではなくユニークを好むイームズらしさが伝わる特徴である。 この後51〜53年にかけてワイヤメッシュチェア、56年名作ラウンジチェア、58年アルミナムシリーズなどを発表していくが、60年代に入ると、チャールズとレイは徐々にインテリアデザインの現場からは遠ざかり、短編映画や展覧会を手掛けるようになる。どれも家具や建築物と同じく、ウィットでユーモアが有りしかも実用性に富むというイームズ思想からは離れない作品ばかりであった。 チャールズとレイの活動はクフンブルック以来の思想「社会を変革する力としてのモダンデザイン」を良い物を人々の生活へ提供することで達成しようとした。 作品はどれも実用的で有ったが無機質ではなくポップ、そしてユーモラスであり、当時の「アメリカ」を感じさせるものであった。 アメリカは当時、アメリカンスタイルを享受する生活者は「よき人々」。「よき人々」へ「よき物」を提供する企業活動は「よき活動」。人々が集う国家アメリカは「よき国家」と言い切れた幸福な時代であり、二人は正に体現者でもあった。 |
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