レイ・イームズ Ray Eames
(1912-1988)
アメリカ、カリフォルニア州サクラメント生まれ。夫チャールズと共にミッドセンチュリー期アメリカの中核的存在となったインダストリアルデザイナー。旧姓はカイザー。
姉が二歳の時に突然死したため、過保護で過剰に可愛がられ育てられてと伝えられている。 3歳で絵を描き始め、高校は地元の学校へ通いったが美術クラブに所属するなど、後に発揮する才能を感じさせた。 31年2月サクラメント短期大学に入学後短期間在学し、9月にはニューヨーク州ミルブルックのメイ・フレンド・ベネット・スクールへ転校し、二年後に卒業する。 卒業後マンハッタンに引越、当時ドイツから亡命していた高名な画家ハンス・ホフマンが教えていた美術学校アート・スチューデンツ ・リーグに入学。 ハンス・ホフマンが自らの学校を開くと、レイと特別研究生数名は追従し6年間、彼の下で指導を受け作業を共にしたが、これはレイの芸術的な経験にとって非常に大切な期間だった。 ホフマンは色と構成における本来の関係を重視し、生徒へはそれらを身につけさせるために厳しく指導した。例えば数々のドローイングと表現を課したが、ここで身に付いた芸術概念はレイの生涯にわたる作品制作の基礎概念になった。 また彼らの活動はブロードウェーの演劇、映画、画廊のオープニングに参加し、当時ニューヨーク市が提供した美的エンターテイメントの全てに関与するほど活発であった。
36年レイは急進的な芸術グループ、アメリカ抽象芸術協会(AAA)設立メンバーとなり、活動に多大な時間と労力を費やした。 協会はニューヨークの美術館や画廊で非具象主義作品を展示する権利を主張した。運動の結果、第一回AAA展はマンハッタン区立美術館で行われたが、レイの絵もこの時に展示されている。 その後の年次展では、リー・クラスナー、ラスロ・モホリ=ナギ、フェルナン・レジェなど高名な芸術家も作品を展示した。 39年母親の健康が思わしくなくフロリダに移転し、41年母が他界するまで付き添った。フロリダの家は閉めることにしたが、将来の計画は無かったため、友人の提案で有ったクランブルック美術アカデミーにその秋から通うことになる。 ここで生涯のパートナーとなるチャールズと出会うことになる。 二人の出会いから始まった、チャールズとレイのコラボレーションはデザイン界に次々と衝撃を与えると共に後に流れに定着する物へと繋がった。 レイのその後の活動はチャールズの項目に譲ることとするが、二人の仕事はどちらが何かを受け持ったとは区別付け難く正に融合であった。レイは控えめで常にチャールズを立てていたが、彼女の功績が大きかったのではないかとも言われている。 |
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