アメリカンデザインとは
アメリカンデザインはアーツアンドクラフツ的、ビジネス的な二つの流れが源流となっていますが、どちらも根本はピューリタン(清教徒)の倫理を基としていました。
具体的には造物主が造った物には無駄がなく、物は本来的持っている理想に近づくほど美しいと言う信条と、他者への愛の示し方としての労働、その表れとして報酬を受け取れるとする考えでした。 例えばシェーカー教徒はコミュニティをニューヨーク州で造り活動していましたが活動の基本方針は教義にそったもので、両性の平等と労働愛に基づく工芸品の製作などでした。 1852年には椅子工房がつくられ「規則性は美であり、美は有用性に基づく」と言う原則によって制作が行われ、簡素で様式美に合ったものでした。 60年代ごろまで東部で流行り売れてました。世紀末にイギリスのアーツアンクラフツ運動が本格的に入ってくると下火になりましたが、アメリカに運動を受け入れる下地がある事を示す活動でした。 ビジネス面での萌芽では南北戦争から第一次大戦間に、アメリカは空前の好景気で、しかも所得税が無税で有り、また独占禁止法施行前であったため、所得が偏り一部資本家は大儲け出来たために富裕層が生まれました。社会的な問題は別として、芸術が花開く萌芽にはなりました。彼らはお金と暇を芸術に使うことに目を向け始めましたが建築もまた然りでした。 アメリカ東部では資産家がヨーロッパ趣味の邸宅を建築する事を望むようになり、需要を満たすためにアメリカの建築家はパリのエコール・ド・ボザール(美術学校)に留学したため、この時代はボザール・イヤーズと称されています。 例えばリチャード・モリス・ハント、ヘンリーボブソン・リチャードソン、チャールズ・フォレマン・マッキムと言った建築家は、フレンチ・ルネサンス、イタリアン・ロマネスク、グレコ・ローマン・クラシックを折衷したボザール・スタイルのマンションをアメリカ東部に建築しました。東部建築の特徴は、彼らの主張と言うよりはニーズがそこに有ったためでしょが、主に構造部分は下請けなどに任し彼らは外観のスタイルを欧州風に飾る事に専念しました。ビジネス要素に合わせてスタイリングすることはアメリカンデザインの一つの流れになりました。特に大不況期を乗り切るためにスタイリングを物に施した動き、例えばウォルター・ドーウィン・ディークなどのインダストリアルデザイナーもこちらの流れでしょう。
19世紀後半、東部富裕層の妻たちも余暇とお金の使い方を欧州風、特にイギリスのスタイルに憧れ、オスカー・ワイルドの美的生活などに影響されました。その様な女性向に雑誌も続々と創刊されるなどの動きに繋がり、彼女たち自身で屋内外全般の装飾を考えることが出来る契機となりました。 女性がデザインに興味を持ち活動したことはアメリカのモダンデザインの発達に女性が一翼を担うことになりました。この様な動きは欧州には見られないアメリカ特有の大きな特徴でした。アメリカの地域性として民主主義があり、平等概念が広まってきつつあったためでしょう。 東部はこの様であったが地域性からか中西部、特にシカゴでは現実主義的な建築様式が花開こうとしていました。 後にこの地域で活躍した建築家、デザイナーをシカゴ派と称しました。 シカゴ派の先駆けにメジャー・ウィリアム・ル・バロン・ジェニーがいます。 彼も欧州パリに留学しましたが、東部建築家とは違いボザールではなく、エコール・サントラル・デ・ザール・マニュファクチュールで学びました。 東部建築家は外観を重視しましたが、ここで彼が学んだのは構造技術でした。 学んだ技術を生かし帰国後、鉄骨構造を持つ高層ビルを建築しました。後に高層ビルはシカゴ派の特徴と言える建築物になりましたが、パイオニアはまさに彼でした。 また彼の事務所には後に著名となるルイス・サリヴァンがいました。サリヴァンのモットーは「形は機能に従う」と言う機能主義でしたが、アメリカンデザインの根底に流れる思想に影響を受けたものでもありました。 サリヴァンの事務所にはフランク・ロイド・ライトらがいました。彼らシカゴ派の活動もアメリカデザインの一つの源流になり、ミッドセンチュリー期に活躍したアメリカ第二世代に影響を与えた活動になったのでした。 |
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