ヘルマン・ムテジウス Hermann Muthesius
(1861-1927)
19世紀末から20世紀初めにドイツで活躍した、建築家、デザイナーであり、ドイツ政府の建築、文化行政官も務めた人物。 ドイツ工作連盟の創建に貢献し、工業化による規格化を提唱した。 大学を出たムテジウスは1887年から、日本の司法省建設スタッフとして4年間滞在する。 96年来ドイツ大使館付き通商アタッシュとして7年間ロンドンに在住し、イギリスにおける住宅及び工芸運動を研究した。特にアーツアンドクラフツ運動に影響を受け、ドイツに運動を持ち帰り広めることの必要性を感じ、帰国後1903年よりプロイセン商務省の視学として美術工芸学校の改革に当たなど活動を始める。 07年にベルリンの商科大学で学長を務め、そこでの開講に当たり「工芸の意義」と題する講演ほ行った。「近代工芸の意義は、芸術的、文化的、経済的意義として把握されていなければならない、したがって過去の様式の模倣ではないものを作り出すこと、つまり精神的、物的、社会的諸条件の表れとしての形態を創造することが必要だ」と説いた。これはアーツアンドクラフツ運動を前進させる試みを込めた演説で有り、芸術と産業の一体に繋がりを想起させる提言は、従来の工芸、芸術家からは反発が予想される物だった。
演説には多くの反対、賛成運動が起こった。反対派では例えばベルリンの工芸関係経済同友会などはムテジウスを『ドイツ芸術の敵』と非難するまでであったが、賛成派も多く、かえってこれら潮流が契機となり新たな団体を生むきっかけとなる。 その様な機運から1907年10月、ミュンヘンでドイツ工作連盟が創建される。ムテジウスはこの連盟の設立に尽力する。 14年連盟の総会でムテジウスは首脳部案として生産品の「標準化」を巡る10項目の提案を行った。例えば第一項では「建築その他すべての工作連盟の活動領域は、標準化に向かって進んで行く、それによってはじめてかつての調和のある文化と時代に備わっていた広い一般的な意義を取り戻すことが出来るであろう」と述べている。この標準化の考えが、後に工業の進展につれ工業化による規格化へと繋がっていく。これらムテジウスの考えはウィリアム・モリスの思想を形を変えた方法での実践と言えるだろう。 総会で連盟は提案に対して、賛成反対と割れるなど、連盟また芸術、産業界に直ちに彼の提案が影響を与えたわけではないが、第一次大戦後、次世代の建築家、デザイナーよって現実化されていくなど影響を残した。 |
||||