ウィリアム・モリス William Morris
(1819-1900)
19世紀イギリスの思想・活動・工芸家。
アーツアンドクラフツ運動の実践者で有り、精神的支柱として活動家に影響を与えた人物でした。 最初モリスは聖職を志しましたが、オクスフォード大学エクシター・カレッジ在職中にジョン・ラスキンの思想に感化され聖職者への道から思想・活動家へと歩みを変えました。ラスキンの思想は「芸術と職人がいまだに未分化の状態にあり、創造と労働が同じ水準に置かれていて、人々が日々の労働に喜びを感じていた時代」を理想とし、その元を中世ゴシック時代の建築に求めました。これに感化されたのはモリスが生きていた当時は工業化初期の時代で、資本と労働の分離が進み貧富の差が生まれていましたが、その様な時代背景が分離前の中世を理想とする思想に感化される下地を提供したためです。 学友エドワード・ジョーンズと語らい、フランスのゴシック建築研究の旅に出た後、聖職への道から思想の実践者として活動を始めました。ラスキンの思想ではよき社会はその精神が物に具現するはずですから、よき物に宿る芸術面を総合的に分析しなければなりませんが、分析するには芸術を総合的に学び統合する必要が有ると考えたモリスはまず、建築家ジョージ・エドムンド・ストリートの事務所に弟子入りをし建築を学んだ後、画家ダンテ・カブリエル・ロセッティの勧めで絵画の道に入りました。 1861年修業時代の後、実践の場としてバーン=ジョーンズを始めとする友人知人の参加を得て、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立しました。設立趣意書に良き装飾を全うすることがうたわれ、分析統合した芸術によって装飾を造り活動によって思想を実践することを意図したものでした。 商会はこのため室内装飾の一切、壁面装飾やステンドグラス、家具などの調度品、金具に至るまで手がけることによって総合化を目指しました。 商会は1875年にモリス単独の管理になり『モリス商会』と改称されました。 商会の活動の中でもモリスが力を注いだのは壁紙や更紗のためのパターン・ワークで、それらは自然界の躍動感が表れたもので、美しい自然観の表れでした。これら表現手法もモリスが生きた時代、モリスの場合、反工業化を反映したもので、時代影響下でモリスが育んだ感性、自然観はアール・ヌーヴォーに繋がる価値観になったのでした。
晩年はロンドン郊外ハマースミスにケルムスコット・プレス(出版)を設立し、最高の美の世界を表現するために『理想の書物』の刊行に没頭しました。書物に美を求めたのは、中世写本や初期印刷本の名品には装飾への愛と物語の愛が両方詰まっており、それらは美の集積であり理想と考えたからでした。 モリスが刊行した書籍は、中世の回顧主義的表現ではなくどれも新しく、中世写本から抽出した美の中にパターンを見、そして構造的なものに仕上げた物で、モダンデザインの走りとなるものでした。 『チョーサー著作集』に代表される刊行はタイポグラフィや余白のバランスに構造的な正しさが有り、紙や表紙の革、装飾も含め書籍が総合芸術の表れとなった物でした。
これらモリスの活動は1880年代に入ると、一つの潮流となる運動となるほど影響を与え、後にアーツアンドクラフツ運動と称されるようになりました。 主な活動家には1882年アーサー・H・マックマードゥを中心に設立したセンチュリー・ギルド。1884年にウォルター・クレインが組織した芸術労働者ギルドが、1888年に手工業ギルド学校をチャールズ・R・アシュビーが設立した活動などが有名です。 モリスは芸術と工芸の統合によってよき社会の実現を目指しましたが、モリスが重点を置いた手仕事による中世風の価値観は、入念な作業によってしか生み出されないとしたら、コスト面からも一部の社会上層の人々にしか受け入れられないとの矛盾をはらみ、課題は次世代へと受け継がれたのでした。 |
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