ヨーゼフ・ホフマン Josef Hoffmann
(1870-1956)
チェコの生まれ。19世紀末から20世紀にオーストリアで活動した建築家、デザイナー。
ウィーン分離派のメンバーであり、ウィーン工房の設立者。 ブリュンの国立工芸学校卒業後、ヴュルツブルクの軍事施設建設局に勤めた後、ウィーン美術学校に進学しオットー・ヴァーグナーの下で学ぶ。ヴァーグナーの事務所で働いていたヨーゼフ・マリア・オルブリヒと知合い共に1897年結成のウィーン分離派へ参加、活動に尽力する。 98年オーストリア工芸学校で教え始め、99年にはコロマン・モーザーも同学校に参加する。 分離派での活動の転換点は第八回分離派展であった。この分離派展はホフマンとモーザーによって会場構成され、またチャールズ・レニー・マッキントッシュなどグラスゴー派の物品が展示され影響を受けている一面を示し、またモーザーの家具も初めて出品されるなど後の活動に指針を示した。 01年展覧会では彼ら生徒の作品が展示され成果が出始める。02年には教育相からギルド活動が活発であったイギリスヘ派遣されるなど、集団で活動しするための下準備となる経験を積んだ。
前記のような契機から03年コロマン・モーザーと共にウィーン工房を設立。ウィーン工房はアーツアンドクラフツ運動の英国チャールズ・アシュビーのギルド・オブ・ハンディクラフツのオーストリア版と言われているが、地域性ゆえの違いも多い。 工房はゼツェッションを体現するものであり、統合と新生を目指したものだった。工房メンバーは金銀や宝石の細工師、画家、ニス塗職人、家具師のなどでデザイナーと職人を統合し日常生活のあらゆるニーズに応える工芸品を作りし出した。最終的には建築、インテリアの設計。工芸品のデザインや制作。図案家、職人そして消費者までに繋がる流通の関係まで統合することを図った。 工房の代表的な建築物はブリュッセルのストックレー邸で外観は直線的で優美で有り、内装家具、調度品と活動の全てを統合した作品だった。また、食堂壁画の『生命の樹』はクリムト作である。 ウィーン工房は32年に経営難のため解散し、晩年はイタリア、ヴェニス国際ビエンナーレのオーストリア代表や芸術審議会の委員など公的な役職を数多く歴任しました。 彼のデザインは『方形のホフマン』と称されるほど直線的であり、生真面目で完全を求めたがまた優美でもありました。 代表的作品
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